1. シェーンベルクの教育活動

1.1 1902年から第一次世界大戦中の1915年まで
 シェーンベルクの教育活動は、1902年から始まると考えて良い。1901年の末に、シェーンベルクはウィーンからベルリンに移り、翌年には、文芸カバレットの劇場である、≪ユーバーブレットル≫劇場や、≪ブンデス・ブレットル≫劇場で指揮者の地位にあった。これらの劇場で働いていたのは、おそらく経済上の理由からであろうと推測される。しかしシェーンベルクは、≪ユーバーブレットル≫劇場の支配人であった、E.v.ヴォルツォーゲンの紹介で、R.シュトラウスと出会うこともできた。シュトラウスの尽力により、シェーンベルクは、奨学金とシュテルン音楽院2)で教鞭をとることができるようになった。しかしシェーンベルクのベルリン滞在は、1903年の7月までで、わずか1年間しかシュテルン音楽院で教えていない。
 ウィーンに戻ったシェーンベルクは、自分たちの作る現代音楽が演奏会でなかなか取り上げられないことを憂慮して、親友のツェムリンスキーと協力して<創造する音楽家協会>を設立する。すでにこの時期に、彼は、自分たちの音楽と聴衆との間の直接な関係と、ウィーンに同時代の音楽を根付かせようという意識があったといえる。これは、シェーンベルクの教育活動を考える上で、生徒を集めて教えるという教授活動だけでなく、<現代音楽の啓蒙活動>というもう一つの側面を表している。
 ウィーンから戻ったシェーンベルクは、もちろん教育活動も行っている。1904年には、彼は新聞に広告を出して生徒を集め、E.シュヴァルツヴァルト3)が関与していた女学校で、作曲の講座を開いた。シュヴァルツヴァルトの学校は、<改革教育>に影響を受けていて、新しい理想のもとに開かれた学校であった。A.ベルクは、このとき新聞に出された広告を見た彼の兄の取り計らいによって、シェーンベルクから1904年から教えを受けるようになった。またウィーン大学でグイド・アドラーの下で音楽学を学んでいた学生が、シュヴァルツヴァルトの学校で開いていたシェーンベルクの作曲講座を受講していた。そのなかには、シェーンベルクの数多い弟子のなかで、A.ベルクと並んで有名な、A.v.ヴェーベルンをはじめ、H.ヤロヴェッツ、E.シュタィンなどがいた。この女学校に開いた作曲講座に集まった生徒は多かったが、シェーンベルクが才能を感じる生徒は少なかったらしい。まもなく彼は、この学校での作曲講座を閉じ、優秀な学生を選び、自宅にて個人授業を続けている。
 シェーンベルクは、1910年2月19日付けのウィーンの芸術アカデミーあての書簡で、私講師として作曲の授業を担当させてもらえないかと要請している(Schönberg 1958:21)。アカデミーは、シェーンベルクを作曲の講師として採用することに、大変な拒絶を示した。マーラーの口添えなどもあって、ようやく1910年の9月10日から、このアカデミーでシェーンベルクは私講師として作曲を教え始める。しかしその期間は、ここでもわずか1年間だけであった。このアカデミーでの生徒は少なくとも3人はいたと思われる。1924年にシェーンベルクの50歳を記念して作られたアルバムに、このコースを受講した生徒として、E.クラウス(後のウィーン楽友協会の副総裁)、K.リンケ、J.ポルナウアーの名前が挙げられている。
 アカデミーで教職についていたといっても、待遇は良くはなく、シェーンベルクの生活が向上したわけではなかった4)。経済的な問題を解決するために、シェーンベルクはウィーンを離れる決心をする。1911年の秋にシェーンベルクは、再びベルリンに赴き、以前勤めていたシュテンルン音楽院で講師として赴任する。意外なことにベルリンのシュテルン音楽院では、シェーンベルクは一度目の時よりも、好意的に迎え入れられた。これは、ブゾーニやシュナーベルが奔走したためだといわれている。ウニベルザール社のヘルツカ宛の手紙で、彼はベルリンでの生活がまんざらでもない様子を伝えている。「あなたは、私がここでどんなに有名人であるか考えられないでしょう。そのことを伝えると、私は恥ずかしくなってしまいます。至る所で私は知られています。私のことは、写真で知られています。私の生涯や個々の事柄、スキャンダルにいたるまで、私がほとんどすぐに忘れてしまったことを、私以上によく知っているのです。」(Schönberg 1958:26)
 シェーンベルクは、1915年の7月までベルリンに滞在した。このベルリン滞在中にウィーンの音楽アカデミーから正教授就任を要請する手紙を1912年に受け取っている。しかし今度は、シェーンベルクが、ウィーンからの要請を断っている。

1.2 1915年から1933年まで
 ウィーンに戻ったシェーンベルクは、兵役に就いた。1917年に軍隊から解放されると、彼は教育活動を再開する。シェーンベルクは、再びシュバルツヴァルトの学校で1917年9月28日から1920年の7月まで、教えている。ここでの授業は、<作曲ゼミナール(Seminal für Komposition)>と呼ばれていた5)。貧富や音楽上の基礎知識の程度を問わず、誰でもこのゼミナールに参加できる、開放的なもので広く注目されたゼミナールであった。1924年にシェーンベルクに捧げられたアルバムの中には、このゼミナールの受講者のリストが掲載されているが、1918年から1919年には55人、1919年から1920年には22人の学生がこのゼミナールに集っていたことがわかる(McBride 1984:33)。
 シェーンベルクのこの時期の教育活動を考える上で重要なのが、<私的演奏協会(Verein für musikalische Privataufführung)>の設立である。この協会は、1904年にシェーンベルクがツェムリンスキーとともに組織した<創造する音楽家協会>と趣旨を同じくする。<私的演奏協会>の綱領には、目標と目的が次のように書かれている。「利益を挙げることに基づいていない、この協会の目標は、芸術家や音楽愛好家に現代の音楽についての真の、そして正確な知識を伝えたいと考えているアルノルト・シェーンベルクが、その意図を自らの手で実現できるようにすることにある。この目標に到達するために、協会は、定期的に、可能ならば毎週、現代音楽が演奏される協会の会合(協会の夕べ)を催すことに努力をする。」(Smith 1986:249)
 シェーンベルクを会長にした、この協会の活動には、前述したシュバルツヴァルトの学校で開かれていた作曲ゼミナールの学生も多く活動している。実際、この協会はおよそ3年間の活動期間の間に、113回もの演奏会を開催している。取り上げられている演目の多くは、同時代の作曲家や、シェーンベルクの下で学んでいた生徒の名前が見受けられる。この演奏会は、現代音楽を普及する目的とともに、若い勉学中の作曲家の作品を試演するという側面があった。しかし、この理想にあふれた<私的演奏協会の活動>は、1921年にオーストリアを襲ったインフレによって中止されてしまった。
 1924年7月再びシェーンベルクはベルリンに移る。F.ブゾーニが亡くなったことにより、その後任として、彼は、プロイセン・芸術アカデミーの作曲のマスタコースの教授になった。1925年にアカデミーと取り交わされた契約書には、シェーンベルクの年俸や授業期間の義務などが記載されているが、「シェーンベルクは、授業の形態を自由にできる」とも記載されている(Rufer 1959:200)。従って、シェーンベルクはベルリンのアカデミーのマスタコースに、ウィーンで行っていた<作曲ゼミナール>や<私的演奏協会>での教育方針を持ち込むことができた。
 この時期のシェーンベルクは、主に自分のところに集まった生徒だけを対象としていた。ベルリンを去る直前に彼は、ユニークな啓蒙活動を行っている。それは指揮者ロスバウトとの共同作業によって実現した、ラジオによるシェーンベルクの講演である。ロスバウトは、1928年12月2日に、フルトベングラーが指揮したベルリン・フィルハーモニーによる『管弦楽のための変奏曲』の初演が失敗したことを知っていた。そのため彼は、この曲のラジオ放送にあたっては、調性音楽に慣れ親しんでいる聴衆とシェーンベルクの音楽との間の隔たりを埋めることが必要であると考え、作曲家自身による作品解説の講演を企画した。シェーンベルク自身も、このような演奏会の必要性を感じており、ロスバウトの提案を快諾した。
 このレクチャーコンサートは、3回行われた。1931年3月30日には『オーケストラのための変奏曲』作品31の構造や変奏の技法についての解説を行った。1932年2月21日には、シェーンベルクの原稿をロスバウトが代読する形で『4つの歌曲』作品22について行われた。そして最後は、演奏のための解説講演という形ではなく、単独の講演をロスバウトはシェーンベルクに依頼し、1933年2月12日にブラームスに関する講演が、フランクフルト(マイン)のラジオ放送によって放送された6)。これらの講演は、今日のレクチャーコンサートのさきがけとなるものであり、シェーンベルクはここで初めて、一般の音楽聴衆に対して伝統的な音楽と新しい音楽の間を埋めるための啓蒙活動をおこなったのである。
 1933年になると、ナチス政権下のもとシェーンベルクは3月23日に一方的に、アカデミーの職を一時解雇される。そしてシェーンベルクはフランスを経由して10月25日に亡命のためアメリカへ出発した。

1.3 1933年からのアメリカ時代
 亡命後もシェーンベルクの教育活動は続く。亡命した1933年には、すでにボストンのモルキン音楽院で作曲の授業をおこなっている。1934年までの一年間であるが、この時に、晩年の教育活動の助手を務めることになるD.ニューリン、G.ストラング、L.シュタインを育てている。その後シェーンベルクは、カリフォルニアに移り、1934年から1935年の間は、南カリフォルニア大学で音楽学の授業を担当していた。1936年からは、カリフォルニア大学の教授に就任している。アメリカでのシェーンベルクの学生は、音楽を専門とするものではなく、音楽の基礎知識がほとんどない多くの生徒を教えなければならなかった。シェーンベルクはこのことについて、1936年3月16日付けのシュレッヘン宛の手紙の中で次のように嘆いている。「私は、アインシュタインが中学校で数学を教えるような、無駄なことをしているようだ」(Schönberg 1958:214)
 アメリカ時代のシェーンベルクは、生徒に恵まれていたとは必ずしも言えないが、ヨーロッパ時代のように自宅で個人レッスンを行う生徒もおり、変わることなく熱心に教育活動を行っていた。勤めていたカリフォルニア大学にシェーンベルクはいくつかの提案をしている。彼は、オーケストレーションのクラスを作り、「和声の構造的機能」と呼ばれていた新しいクラスも作った(Stein 1998:253)。後者のクラスからは、『和声の構造的機能』という和声学の教科書が作られた。
 アメリカの学生への教授経験から、シェーンベルクは、初心者向けの理論書を多く書いているのも、アメリカ時代の教育の特徴であろう。前述した『和声の構造的機能』(1954年)の他、『作曲初学者への範例』(1942年)、『対位法予備練習』(1963年)、『作曲の基礎技法』(1967年)の4冊がある。
 1944年にカリフォルニア大学を70歳で退官した後も、彼は、1946年にシカゴ大学で、1948年にはウェスト・サンタ・バーバラ音楽アカデミーで非常勤の授業を行っている(石田 1974:17)。死の直前、1951年の4月26日付けのイスラエル音楽アカデミーの音楽部長であるPelleg宛の手紙の中で、音楽アカデミーの校長へのポスト就任の要請にシェーンベルクは受諾の意志を伝えている(Schönberg 1958:297)。
 以上シェーンベルクの教育活動を概観したが、彼が生涯に渡って、何らかの形で教育に携わってきたことが明らかとなった。もちろんそのほとんどが経済的な理由から生じている側面もあるが、シェーンベルクの教育活動に対する絶え間ない熱意の結果であるともいえる。
 シェーンベルクの教育活動は内容の視点から次の2つに分類できる。音楽を志す若者に、個人授業やゼミナール形式で講義をし、さらに試演会という形で多くの現代作品を実際の楽器で演奏することを目指したことは、重要である。つまり専門家育成のための教育を行っていたことである。そしてもう1つは、一般聴衆や必ずしも音楽を専門としない者に、教養としての音楽を教えていたことである。