2. 日本人における「妬み」の変遷
−神話分析を通した「妬み」の問題性−

 キリスト教において「妬み」(envy)は、「羨望」と「敵意」を伴う根源的(primitive)な心性(情動)として捉えられる。旧約聖書における創世記により、「カインとアベル」の物語に表されている。二人は兄弟であり、アダムとイブの子どもとされる。神が作った二代目の人間にあたる。
 さて物語は、「兄であるカインは、畑を耕し、野菜を作る。弟であるアベルは、羊を飼っている。二人は、その仕事の証とし、神に供えた。神が弟のアベルの供え物を見、自分の供え物が受け入れられなかったために、カインは妬み、アベルを殺してしまう」(土居・渡部,1997)。そこには、カインのアべルに対する「羨望」と「敵意」が顕れている。そして、カインは人類の祖となる。私達人類はカインの末裔であり、罪深い存在であることの認知が促されていると言えよう。
 日本の神話にもこれに似た兄弟の物語がある。『古事記』第二章「天孫降臨−海幸彦と山幸彦」である(梅原,1980)。
 兄であり海で魚を採る海幸彦と弟の陸で狩りを行う山幸彦は、ある日、弟の三度の懇願により、互いの道具を交換し、仕事をも交換する。しかし互いに成果は上がらない。そればかりか、山幸彦は兄の釣り道具である針をなくしてしまう。弟は兄に謝り、自らの太刀を千本の針にして差し出す。しかし兄は許さない。やがて、山幸彦は釣り針を探し、海に潜り、姫と出会い、釣り針を取り戻す。そしてその釣り針を兄に返すことができるのだが、その後、兄は貧しくなり、そのうえ、荒々しい心を起こして、弟を攻める。この行為には明らかな敵意が見られるが、それがどこからくるものなのか明確にされていない。
 結果として、山幸彦は道具を出して、兄を溺れさせ、助けてくれというと、水を引かせて救われた。このように、さんざんに悩ませ、苦しめたあとに、とうとう、海幸彦は頭を地につけて、「もう、これ以後は、あなたの守り人となって、昼も夜も、あなたを守ってお仕え申し上げましょう」と申し上げた。だから、山幸彦の子孫の隼人たちは、昼も夜も天皇にお仕え申し上げるのである。蜜玉塩三つ玉その際、子を授かる。姫は鮫の化身であり、それを知られた姫は姿を消すが、その際、兄に対する防衛の約束をする。田を耕すための水の操作などである。
 ここでの山幸彦は、天照大御神の曾孫にあたり、その孫が初代の神武天皇であるとされる(梅原,1980)。ここに、天皇とそれに仕える隼人(天皇以外の国民)という構図つまり官僚制が出来上がっていると解釈できる。
 聖書においては、我々人間は「妬み」を持った罪深い存在と描かれる。しかし、古事記においては、我々人間は、天皇に憎しみを抱いても、屈伏された存在であり、「妬み」は封印された心性(情動)と解釈されるのである。
 また、いじめの原因に「嫉妬」があると明確に主張する教育学者もいる(宮原,1997)。「妬み」を「他者への羨望に伴う、敵意感情」と定義すると、「嫉妬」は「自分がすでに手に入れたものを失うのではないかという不安や恐れ」とも定義できよう。前者がenvy、後者がjealousyであり、自分の恋人や配偶者が奪われそうな時に覚えると言われる(富田,1991)。しかしながら、これらの著述は、嫉妬が地位や親からの処遇、学歴や富、名声など価値あるものを所有する者への「羨望」を有し、その際に伴う「敵意」を含めた妬みをも包括する一般日常語として、使われてきたことを意味していまいか。
 事実、嫉妬は、古事記においても、「石之日売皇后の嫉妬」(いわのひめこうごうのしっと)物語の中で、つぎのように使われてきた。
 その大后、石之日売の命、いたく嫉妬(うはなりねたみ)したまひき。かれ、天皇の使はせる妾は、宮の中をえ臨まず、言立てば、足もあがかに嫉(ねた)みたまひき。しかして、天皇、吉備の海部の直が娘、名は黒日売(くろひめ)、その容姿端正しと聞こしめして、喚上げて使ひたまひき。しかるに、その大后の嫉みたまふを畏(かしこ)みて、本つ国に逃げ下りき。天皇、高殿にいまして、その黒日売の船出でいて海に浮かべるを望みみて、歌ひたまひしく、沖へには、小船連ららく、くろざやの、まさづこ我妹国に下らすかれ、大后、この御歌を聞きて、いたくいかりたまひて、人を大浦に遣はして、追ひ下して、歩(かち)より追ひ去りたまひき。
 要約すると、皇后はとても嫉妬深かかったが、黒日売という見目麗しい女性を天皇(仁徳)が近くに置いていた。黒日売は、皇后のあまりの嫉妬深さに、畏れて国に逃げ帰ってしまった。それを見て、天皇は、その船を見送りながら、「沖の方に小さな船が並んで行くよ。可愛いわたしの恋人は、故郷に下って行きなさる」と。皇后はこの歌を聞いて、大変怒り、さっそく、難波(大浦)に遣わして、黒日売を船から下ろし、歩いて行きなさいと、故郷に追いやったというのである(梅原,1980)。
 この部分には、妻の夫とその愛人への嫉妬が明確に描かれている。天皇家には、血族の維持のため、側室を持つことが当然であった。その制度を廃止したのは、昭和天皇の時代からとも言われる。側室を持つことが、制度として許されるなら、女性の嫉妬も必然として否定することはできない。
 しかしながら、嫉妬についても女性が主に持ち得るような感がある。「男の嫉妬はみっともない」という言葉に顕されるニュアンスである。「妬み」は「和を尊ぶ社会では、持ってはならないもの」であるが、それに近似的な言葉である「嫉妬」もやはり醜い要素が漂う。それでも女性に許されるのは、古事記が編纂された700年代にはすでに中国から儒教が伝わり、その男尊女卑の思想が「女性ならば、嫉妬を持っても仕方がない」「男の嫉妬はみっともない」という言葉に象徴される社会通念に繋がっていると推測される。その裏付けとして、もっとも古い恋愛小説である『源氏物語』には、男性の嫉妬は登場しない。
 つい、半世紀前まで天皇であろうと、側室を持つことが許されていた。対して、女性が夫以外と交際しようものなら、姦通罪という罪に問われてきた。これは、男尊女卑にほかならないし、そのような存在の女性には、嫉妬という卑しい心性(情動)が専売特許であったと考えられるのである。
 第二次大戦後に、男女平等のもと、嫉妬は男性にも当てはまる心性(情動)として使われるようになった。
 現実に、他者への羨望とそれに伴う敵意は、原初的な情動として存在するのであり、文化的に支持された「嫉妬」が「妬み」を包括し、一般的に使われたと考えられないだろうか。
 事実、上の『古事記』における「石之日売皇后の嫉妬」においても、「難波(大浦)に遣わして、黒日売を船から下ろし、歩いて行きなさいと、故郷に追いやった」というように、激しい敵意による「意地悪な行動」が見られる。言わば、嫉妬によるいじめである。さらに、男尊女卑による下品な心性として「嫉妬」が捉えられるため、プライドがある者は、その存在さえ隠す傾向に走る。ならば、持ってしまったとしても、隠し、その敵意により、陰湿化し、攻撃的な行動となり得る。
 嫉妬という言葉は、文化の支持されることになり、「妬み」は、官僚制度を維持するという制度のもと持ってはならないものとされたと考えられる。となると、「妬み」という情動は、嫉妬に包括される。例えば富田(1991)は、嫉妬には、「envy−自分が持っていないものを他人が持っていることからくる妬みや羨望の感情」と「jealousy−自分が手に入れたものを失うのではないかという不安」と分けている。この分類からすると、石之日売の命は黒日売に夫を奪われまいかとjealousyを抱いた。よって、嫉妬がenvyをも包括する文化がわが国に受け継がれることになったと解釈もできよう。例えば、「こぶとりじいさん」「花咲かじいさん」「おばあさんの玉手箱」「金の斧、銀の斧」などの昔話は、すべて、自分が持っていない物を隣のおじいさんやおばあさん等が得、羨み、自分もそれを望むが悲劇を迎えることになる。これらは、envyを抱くことを戒める文化を表している。
 対して、キリスト教圏で描かれるenvyについての文化は、深刻である。例えば、「エデンの東」では、弟に嫉妬した兄は、戦場に行ってしまう。ブラットピットが主演した「セブン」という映画では、7つの大罪「傲慢、怠惰、暴食または大食、色欲、強欲または貪欲、妬み、憤怒または復讐」による殺人を描いている。この話は、映画の中で、ダンテの神曲に描かれている「キリスト教の地獄に落ちる7つの大罪」のことを描いていることに考えがたどりつき、物語が進んでいく。最終的に、6つ目の殺人は、主人公を妬む犯人が妻を殺し、憤怒を抑えきれない主人公の刑事が犯人に復讐して終わる。
 ここで象徴的なのは、まるで7つの殺人が、人間が生きていく上で必然的な大罪または悲劇(大悲)として描かれている点である。事実、聖書の中にはたくさんのenvyの話がある。例えば「アダムの息子であるカインがアベルをねたんで殺害(創世記4章1〜16節)」「ヨセフの兄弟たちがヨセフをねたみ殺そうとする(創世記37章2〜35節)」「サウル王がダビデをねたみ殺そうとする(サムエル記18章1〜9節)」「ピサトは、祭司長たちが、ねたみからイエスを引き渡したことに、気づいていたからである(マルコの福音書15章10節」等である(meguro,2001)。特に、イエスの死については、人間のすべての罪を背負い、十字架にかけられ、やがて復活する。つまり、「妬み」による罪を「人間が犯す大罪」として描いている。
 以上を踏まえて、キリスト教と日本の神教を比較すると、神と人間の捉え方に絶対的な違いが認められる。キリスト教では、主であり、創造者である神と人間の間には絶対的な差がある。一人の神と造られた人間の差であり、我々人間は偉大な神の前では、平等な創造物でしかない。よって、人間の間で妬みが生じるのは仕方がないという観念が背景に見受けられまいか。対して、神教では、人間は皆、平等に神になる存在であり、この世に未練や恨みを残した者は、神の世界に行けず、霊として彷徨うことになる。もし、生前「妬み」によって殺人が起これば、被害者の霊はこの世に残り、祟りを及ぼすことは十二分に考えられるのである。氏や家に囚われないという前提で存在する官位(官僚制)は、個人の努力に棄却される点で、妬みを抱かせない制度であり、神教の「怨霊信仰」(御霊信仰)に合致したシステムであると解釈できまいか。
 河合(2002)は、外国のこのような神話における大罪という概念は、わが国にはみられないことを指摘している。ならば、我々日本人は、上のような背景から「妬み」に対して鈍感もしくは意識すること自体に恐れがあり、その対処の仕方を知らないと言っては言い過ぎであろうか。
 しかしながら本稿の当初に挙げた最近のいじめに伴う自殺事件における暴力は、それが自身の「敵意」や「羨望」つまり「妬み」によるものであると知ることができたなら、罪のない者への攻撃的な行為と悲劇は防げたのではないか。