目次 次章 参考文献

本報告は平成27年6月29日に開催された生涯学習講座「金融で語る日本史」の講演概要である。当日は100名を超す近隣住民が参加し、講演後にも演者と聴講者の間で活発な質疑応答が交わされた。

1.永仁の徳政令

鎌倉時代、日本は深刻なデフレ経済下にあった。宋銭は民間貿易を通して平安時代末期の11世紀頃から日本に持ち込まれ、平忠盛以来、平氏一門が日宋貿易を積極的に保護したことで大量に流入した。しかしながら平家一門が滅亡し、宋銭流通に否定的な鎌倉幕府が成立したことで日宋貿易は政治的な後ろ盾を失った。さらに宋は銭の大量流出により貨幣不足に陥り、対抗措置として1199年に銅銭輸出を禁止した。一方で鎌倉幕府は貨幣経済の浸透に抗うことは出来ず、1226年に一転して宋銭の使用を公式に認めた。この結果、鎌倉時代は貨幣が庶民に普及し需要が増す中で、肝心な宋銭は新たに供給されない状況になっていた。当然、銭は流通過程で摩耗・消滅することもあり、松延ら(1989)が収集した土地売買データからも、鎌倉時代は深刻な貨幣不足によるデフレ経済に陥っていた実情が窺える。

例えば「東寺百合文書」によると、京・山城国の土地が鎌倉時代に25貫文、その90年後の室町時代にはその土地が5貫文で売買されたと記録に残る。また13世紀頃から良質な銭を甕などに入れ埋蔵する備蓄銭(退蔵銭)という慣習が流行したが、これは庶民が貨幣を消費や投資に回さず、貨幣価値の値上がりを期待して、摩損のない良質な銭を保管した一種のタンス預金とも言える。

そんな経済情勢の中で2度に渡り元寇が起きた。戦費調達のために借金をして九州へ向かった御家人衆も少なくなかったであろう。戦には勝利したものの、幕府から十分な恩賞が与えられることはなかったことから御家人による幕府への不満も高まった。しかも当時の経済はデフレ下にあり、彼らの保有する資産価値(つまり地価)は目減りする一方で、借務残高は利息に応じて肥大するという、資産と債務のねじれ・・・現象が生じた。そんな御家人衆を不憫に思った幕府は、1297年にデフレ下の緊急措置として「永仁の徳政令」、すなわち日本最初の借金棒引き策を導入した(図)。村井(2005)は永仁の徳政令に対する幕府側の意図が「御家人保護」であったと評している。

しかしながら、永仁の徳政令は中学校の教科書にも記載される通り、その直後から大きな混乱と社会からの反発を招き、翌年幕府は一部を除きほぼ全面撤回させた。笠松(1983)が指摘する通り、幕府の失政は金融市場に混乱を引き起こしただけでなく、経済面での無策ぶりを世に示す格好となった。

後述するが、貨幣不足を端に発する鎌倉時代に発生したデフレを解消するには、戦国の世に終止符を打った異才、織田信長による信用市場の保全策を待たなければならなかった。そして、織田信長のこの政策は豊臣秀吉、徳川家康にその後の政権にも引き継がれることとなった。

図 鎌倉時代の土地価格推移と「永仁の徳政令」の関係


目次 次章 参考文献