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1.犯罪報道の盲点 犯罪報道ほど厄介なものはない。第一、関心度が高い。社会の病理を反映している、という点でも公共の利害に大いに係わる。当然、急ぎ報道しなくてはならない。が、捜査情報は警察・検察が一手に握っており、事件の詳細はなかなかつかめない。警察の捜査に振り回されがちになる。さらに記者たちは、捜査官たちから聞き出す断片情報やリークをもとに、一歩も二歩も踏み込んで書こうとする。動機や手口だけでなく、なぜそんな犯罪が起きたのか、その社会的背景を探るために、容疑者の経歴や家庭環境にまで取材が及ぶことも少なくない。結果としてプライバシーの侵害という問題が発生する。また、より速くより正確に、という原則も、激しい特ダネ競争にあおられ、締切に追われ、どうしても「より速く」の方にウエイトがかかり、誤報による人権侵害という深刻な事態が生まれる。 ところが、報道が間違っていたとしても、マス・メディアは、容易なことでは訂正の手立てを取ってくれない。結果として、人権侵害は放りっぱなしということになる。少なくとも長い間、そうであった。後述するように、1980年代中頃から多少様子が違ってきたが、まだまだマス・メディアの誤報・虚報、人権・プライバシイーの侵害への対応は十分ではない。 マス・メディアは、第四の権力だといわれる。それほどに影響力が強くなった。政治権力に立ち向かうときは、その力は頼もしい。しかし、報道被害に会った個人が、異議を唱えて対抗していくには、第四権力は巨大な壁になる。滅多なことでは、言い分を聞いてくれない。 松本サリン事件での報道の犠牲者とった第一通報者の河野義行さんは、「こちらは裁判の諸費用をあれこれ工面するのが大変なのに、メディアの側は、裁判に負けても賠償金なんて痛くも痒くもない。メディアは、個人が闘うには巨大すぎる相手です」と嘆いている。(注1)これは松本サリン事件が発生してから9か月後、サリンの被害者でもある河野さんが、やっと体調が回復して、訴訟に踏み切ったときの発言で、その後の数か月を含む約1年間、大量殺傷事件の“容疑者”としてさらし者にされていた。 犯罪や事件の報道パターンと報道被害者とのこの関係は、残念ながら、これからも無くなることはなく、永遠の課題として報道機関が背負っていくことになる。で問題は、いかに報道被害を少なくするかという努力と同時に、報道被害が起こったとき、いかにスピーディに対応するか、きめ細かい人権救済の措置をとるか、そのための意識改革がマスコミにとっての大きな課題となる。 1994年6月27日の深夜に発生した松本サリン事件は、宗教団体による犯罪であるという他に、私たちが初めて耳にする猛毒ガスが使われたという点で特筆すべき事件であった。が同時に、犯罪報道の在り方が問われたという意味でも、報道史上に残る事件でもあった。なぜ河野さんは、あれほど大々的に犯人であるかのように報道されたのか。また、され続けたのか。ほぼ1年間、名誉を回復されないままに放置されていたのはなぜか。同じことだが、訂正や謝罪、お詫び、誤報への検証が遅れたのはなぜか。中間で打つ手はなかったのか。もし地下鉄サリン事件が起こらず、オウム真理教団への一斉捜査がなかったら、河野さんの人権はどうなっていたのか。 先ほど河野さんの訴訟について触れたが、訴えを起こしたその日、なんとも奇妙な符合だが、地下鉄サリン事件が発生した。1995年3月20日の朝のことで、その日の夕刊各紙は、一面から社会面にかけ、この不可解な無差別大量殺人の詳報を大々的に報じた。その社会面の一隅に、たとえば朝日新聞では一段見出しで、小さく、河野義行さんが信濃毎日新聞社を訴えた、という記事が載っている。見出しは「松本サリン事件 第一通報者の会社員が信濃毎日新聞を提訴」となっており、本文は「誤った報道で本人や家族の人格が傷つけられた」として、謝罪広告と損害賠償を求めて訴訟を起こした、と書いてある。 信濃毎日新聞が訴訟の対象になったのは、地元紙として影響力が大きいこと、河野さんを犯人扱いした報道が特にひどかったこと、などを理由として河野さんは挙げていた。しかし、マスコミの右代表として的を絞った、という意見合いもあった。 この訴訟について、当の信濃毎日新聞は、さすがに扱いを大きくし、三段見出しで伝えている。「訴訟の要旨」と信濃毎日新聞社幹部(取締役編集担当)の「談話」も掲載しているのだが、この「談話」の強気の姿勢がひどく気になった。「訴状を手にしていない現段階では、お答えのしようがないが、報道の自由にかかわる問題の訴えであるなら、看過できない」と大上段に構え、さらに次のように語っている。 「信濃毎日新聞は、当事件について一貫して捜査の流れを追いながら客観報道に徹し、原告自宅の強制捜査以降は匿名報道を続けるなど、人権報道に細心の注意をはらってきた。一連の報道は、それぞれの時点でそれぞれ信頼に足る裏付けのある記事であったと信じている」 繰り返すようだが、河野さんのこの提訴は、松サリン事件から9か月も経ってから起こされたものである。その間、殺害に使われた有毒ガスはサリンであること、サリンは農薬の調合では簡単につくれないこと、河野さんは被害者であり、容疑を否認し続けていること、捜査が行き詰まっていること、そして1995年1月1日、上九一色村のオウム教団施設近くで、サリンの副生成物が検出されたこと(読売新聞の特ダネ)−−−これら捜査上の新事実は、河野さんの限りない「白」を指差している。にもかかわらず信濃毎日新聞は、強気の姿勢を崩さなかった。報道被害者にとっては、なんとも厚い壁である。訴訟を起こされた以上は、負けられない、という防衛意識が、新聞社側に働いたのであろう。 信濃毎日新聞の名誉のためにいえば、他の新聞社、テレビ局、雑誌社とも、この時点までに、河野さんにお詫びも謝罪もせず、名誉回復の手立ても施さず、検証によって報道の行き過ぎを反省することもなかった、という点では似たようなものであった。むろん、初期報道に見られたような、河野さんを犯人扱いするような記事は減ったし、河野さんの潔白発言も報道されるようになった。しかし、警察もマスコミも、河野さんへの疑惑を捨ててはいなかった。 マス・メディアのなかで最初に「お詫び」の社告と謝罪記事を載せたのは朝日新聞であったが、それも地下鉄サリン事件が起こり、オウム真理教団への強制捜査があってから、さらに1か月後の1995年4月21日付の紙面でのことである。このあと各新聞社、テレビ局のお詫びや謝罪が、次々と続いた。 いずれも、地下鉄サリン事件の発生で、捜当局のスタンスが変わった、という状況を受けてのこ\とで、信濃毎日新聞も6月2日、2段囲みの「おわび」を掲載した。「1日、警視庁などの捜査当\局が(松本サリン)事件をオウム真理教団の組織的犯行と断定したことから、河野さんは無関係で\あることが判明しました。・・心からおわびします」。朝日新聞の姿勢とて、もし地下鉄サリン事\件、オウム強制捜査がなかったら、どうなっていたかは分からない。 それに、「おわび」社告や謝罪記事は、もともと素っ気ないものであって、誤報によって権利を侵害された被害者の名誉回復には、それなりに役立つとしても、なぜ誤報が発生したのかという原因究明には役立たない。初期報道のどこにミスがあったのか、思い込みや裏付け取材の不足が、どんな結果を招いたのか。それらの一つ一つを検証することで、犯罪報道への反省が生まれるし、その検証の詳報を紙面や番組で知らせることで、読者・視聴者の納得も得られる。 その点「おわび」社告の掲載は遅れたが、毎日新聞の「検証」記事は一番早く、かつ具体的で、走り回る記者たちの心理を浮き彫りにしていて、光っていた。 「検証」特集は、6月6日付紙面の1ページ全面を使って掲載された。検証「松本サリン」報道の1年・事件取材に重い教訓・裏付け取れぬまま「薬品調合ミス」走る−−といった見出しで誤報に至る経過を細かく跡付け、河野義行さんの心境も詳しく伝えている。興味深い二、三の点を拾ってみると、次のようである。 @東京情報という権威。 松本市の静かな住宅街で、深夜、突如起こったこの奇怪な事件に、警察も取材陣もパニックになった、というのが真相である。誰が? なぜ?死亡の原因は? そういう焦りの中で、翌日の午後10時、第一通報者である河野義行さん宅が殺人容疑で家宅捜索され、薬品類が押収さた。被疑者不詳とはいえ、河野さんに照準が当てられていることは明らかであった。記者たちが飛びついたのはむりもない。しかし現地記者たちの背中をさらに強く押したのは、東京からの情報であった。毎日新聞の「検証」は、こう証言している。 「(28日午後)10時55分、松本支局に東京本社から情報が飛び込んだ。『河野さんが「調合を間違えた」と話した』というもの。(東京の)社会部記者も総動員で、同事件の報告が上がるとみられる関係当局を夜回り取材。その結果だった。だが(長野)県警での情報の裏付けが取れなかった。締切りが迫り、『極めて確度の高い情報だから』という声に押されるように送稿した。29日付朝刊一面トップで『調合「間違えた」救急隊に話す』と扱われた」 いうならば、これが誤報の始まりである。朝日新聞も読売新聞も、後日の「検証」記事で、同じ東京情報に振り回されたことを告白している。農薬の調合ミスで有毒ガスが発生、そのミスを犯したのは第一通報者の河野さん、というパターンが出来上がってしまった。 Aサリンという未知の毒ガス。 農薬についての化学知識にも乏しい上に、ましてやサリンとなると驚天動地のシロモノである。記者たちは、サリンが旧ナチが開発した猛毒の神経ガスと知り、「とんでもないものが出てきた」と顔を見合わせる。サリンが、押収された農薬から生成出来ないことを後で知るが、最初は簡単に作れるように考え、思い込みに輪がかかる。警察の見込み捜査の間違いも、ここに発する。その警察の片言隻句に踊らされる。「河野さんが原料をどこかに隠したのではないか」と捜査本部の幹部から聞いた記者たちは、「これだけ警察がやっているのだから」と、河野さんへの疑惑は消えなかった、という。 B捜査当局への依存 初期報道が捜査情報に引きずられるのは止むを得ないとしても、少なくとも事件6日後、現場からサリンが検出されてからは、報道陣の独自取材が可能であったはずである。事実、サリン生成には特別な原料と装置が必要であることを、専門家の意見として、部分的だが報じている。が、それ以上には踏み込まず、河野さんへの“容疑”はそのままに放置された。県警の河野さん周辺への捜査がずっと続いたこと、他紙にも同じ記事が掲載されていたこと、そのため「大丈夫だろう」との安易な姿勢が記者にあった、と「検証」記事は反省している。 捜査に依存する報道体質について、河野さんは後に、こう批判している。「警察は疑いをかけて犯人を捜すのが商売だが、マスコミはそれを冷静に客観的に見つめるのが仕事だろう。マスコミは終始、警察と一緒になって犯人探しをしていたように思う」「マスコミは他者を批判することはたけているけれども、自分たちの過ちは容易に認めようとしない。訂正、謝罪ができるまでに一年かかったことは、その意味で残念でならない」(注2) 確かに何とも遅い「おわび」であり「検証」ではあった。そのことは悔いの残る重大な反省点であり、その間、河野さん一家に与えた苦痛ははかりしれない。「おわび」や「検証」ですむものではないが、でも、ともかく、報道機関が、やっとここまで「説明責任」を果たすようになったことは、明記しておいてよかろう。テレビ局も検証番組を組み、河野さんへの謝罪の意思を表明した。
2.「検証」原則について 先に1980年中頃から犯罪報道に変化が見え始めたと述べたが、いうまでもなく、この背景には、国民の権利意識の向上がある。報道被害者の異議申立てが、当然ながら増える。冤罪事件の続発やロス疑惑報道、パリ人肉殺人事件報道などを通じ、犯罪・事件・事故に関する報道の在り方に批判の目が向けられ、報道機関の方でも、反省が生まれた。公権力に係わる事件の他は匿名報道にすべし、という提唱がなされたり、日本弁護士連合会でも1987年11月の人権擁護大会で、「原則匿名報道の実現に向けて匿名の範囲を拡大せよ」との宣言を採択している。このメディアへの異議申立ての精神は、東京弁護士会人権擁護委員会が編纂した『報道被害対策マニュアル』(1996年1月刊)に引き継がれている。マスコミは、別件逮捕や軽い犯罪の場合、匿名で報じるようになったし、婦女暴行事件の被害者名についても、報道しない方向でまとまっている。 一方、それまで呼び捨てだった容疑者に、「○○容疑者」と容疑者の呼称をつけ始めたのは1984年4月のことで、NHKが先鞭をつけた。やがて一部民放局がこれにならい、さらに1989年11月以降、他の民放、新聞、通信社が同調することになった。 ただ匿名の頻度をふやしたり、容疑者の呼称をつけたからといって、事態が解決するわけではない。早い話、河野さんの場合、家宅捜索を受けてから、匿名で報道をするメディアが多かったが、人権擁護という意味では何の効果もなかった。むしろ河野さんの方から、実名報道を希望したくらいである。また、容疑者という呼称をつけることで安心して、過剰に踏み込んで書いたりしたのでは、本来の精神が生かされないことになる。 これらの人権に配慮した報道姿勢は、当然、守られるべきだし、これからも論議を深めていくべきことがらである。それを承知の上で、強調しておきたいのは、むしろ、訂正、おわび、検証という作業を、より機敏迅速に、具体的に、出来るだけ詳細に行うことの重要性についてである。このことは、いますぐに報道機関にとって実行可能な対応であるはずである。事実、不完全ではあるが各メディアは、その方向に向かっている。先に触れた毎日新聞の「検証」記事がその一例だし、この稿の第1章と第2章で述べたテレビ朝日とTBSの「検証」番組や「調査報告」も、その流れの中にある。新聞では、さらに遡って1989年に先例がある。 1989年は、新聞の深刻な虚報、誤報事件が続発した年であった。4月には、西表島のサンゴにカメラマンが傷をつけ、さも心ないダイバーの仕業のように見せ掛けて、環境保護に警告を発する捏造記事を掲載した朝日新聞のサンゴ事件。6月には、大阪府警が、グリコ事件の主犯と実行犯の取調べを始めたことで、ついに事件が解決に向かった、と報じた毎日新聞の誤報事件。8月には埼玉の連続幼女誘拐殺人事件の容疑者宮崎勤の秘密アジトを奥多摩で発見、警察が多数の有力物証を押収した、と報じた読売新聞の誤報事件。 いずれも、人権侵害に直接係わる事例ではないが、特ダネ意識や功名心にかられて起こったという点では共通している。読売新聞は翌日に「おわび」と続報を掲載、毎日新聞は少し遅れ、9日後に「遺憾」表明の編集局長原稿を載せたが、朝日新聞は調査に手間取り、おわびや処分が二転三転し、ついに社長の辞任にまで発展した。 このうち朝日新聞と読売新聞は、その年10月の新聞週間に合わせて、「検証」記事を載せた。朝日新聞は4ページ、読売新聞は2ページを使っての検証で、いずれも力の入ったものだったが、その内容には著しい違いがあった。読売新聞は、社内の組織的なチェック体制や審議機関の説明に大半を割き、「誤報」がなぜ起きたかについての「調査結果」は、全体の三分の一にも満たない。しかも「『アジト』誤報の問題点」と題されたこの調査報告は、一般的な反省に止まっている。たとえば、こういう一節がある。 「激しい取材競争の中で一線記者が冷静さを失い、断片的な情報を総合する段階で、強い思い込みから不確かな『事実』を間違いのない『事実』と信じ込んだ」(10月15日付朝刊 検証で重要なことは、具体的であることだが、これでは、どういう情報を、なぜ、どういうふうな事実と思い込んだのか、そのいきさつがさっぱり分からない。間違いを犯した記者の人物像についての説明もない。 こういう「検証」特集が話題になるとき、必ず引き合いに出されるのが米ワシントン・ポスト紙の「ジミーの世界」虚報事件である。この記事は1980年に女性記者が、ヘロイン中毒に犯された8才のジミー少年の家庭をルポしたものだが、ピュリツァー賞の受賞決定と同時に、捏造であることが判明した。ワシントン・ポスト紙は、ただちに社内オンブズマンに調査を依頼、3日後に詳細な調査報告を紙面に掲載した。内容は、女性記者の野心的な人物像から社内チェック体制のお粗末な実体まで、詳細に調べあげ、この記事に係わった記者、編集者すべてを実名で俎上にのせ、反省を迫っていた。関係者全員の顔写真入り、という念の入れ方である。 「アジト」誤報と「ジミーの世界」虚報では、間違いの度合いに大きな落差はあるが、検証の基本スタンスは同じであるはずである。朝日新聞の「サンゴ損傷事件の調査報告」(10月9日付朝刊)は、明らかに、このワシントン・ポスト紙の「調査報告」を参考にしており、2ページ半近くを使って、事実経過をこと細かく、具体的に記述していた。関係したカメラマン、デスク、部長その他の責任者も実名で登場する。当のカメラマンの心境として、「いい写真を撮って帰りたい一心だった」「責任を感じる事態が重なっていた」という告白も載っている。 さらに「再発防止への対策」として、社外の識者の意見・批判を聞く「紙面審議会」の設置や、読者の苦情や抗議を受けて社内調査をする「読者広報室」の創設を約束している。また、間違った記事の訂正のときは、(1)わかりやすく(2)関係者への配慮は十分に(3)できるだけ新しい情勢も加えて−−という三原則をもとに、目立つ扱いにするとの新しい方針を打ち出している。 日本の新聞史上初めてと思えるこの徹底した調査報告は、権利意識に敏感になってきた時代背景があってのことではあるが、大きな誤報・虚報が発生したときの対応の仕方としては、一つのモデルを作ったといえる。ただし、これとて十分ではなく、たとえば、同じ紙面でジャーナリストの立花隆氏は、ワシントン・ポスト紙のケースと比較し、手厳しい批判を加えている。 「はっきり申し上げて、私は朝日の対応に不満である。この紙面も含めて不満である。もう事件以来、5カ月以上も経過しているのである。何を今ごろモタモタやっているのだろう。この程度の調査と、この程度の対応策作りに、どうしてこんなに時間がかかったのだろう。このもたつきは、朝日が事件の本質とその重大性を認識していないことのあらわれではないのか」 と、まず「遅すぎた検証」を糾弾し、続いて事実経過の底にあるものが掘り下げられていない、と二つの問題を指摘する。 一つは、サンゴを傷つけ、写真を捏造したカメラマンの人物像が明らかにされていない、ということ。それが分からなければ、どこまでが個人の責任で、どこからが組織の責任であるのか分からない。ひいては、正しい再発防止策も講じられない。 二つは、報道写真界のカルチャーについて言及していない、ということ。カメラマンは「魔がさした」のではなく、「この程度なら許容範囲」と考えていたのではないか。問題は、現場に手を触れることが、どこまで許され、どこからは絶対許されないのか。写真部で議論を深め、一定の原則を確立しなければ、また同じことが起きる。 立花氏の批判は、ズバリ核心を突いている。これからの検証は、新聞でもテレビでも、これらの諸条件を満たすものでなくてはなるまい。その点で、朝日新聞の検証も、モデルは作ったが満足のいくものではなかった。特に、遅すぎた検証の失敗は、松本サリン事件でも再現された。 検証は、具体的に、機敏迅速に、できるだけ詳細に、というのが鉄則であって、そのどれかを欠いても、検証の値打ちが薄れる。サンゴ事件の場合、新聞週間に合わせる、という計算があって遅れたとしたら、スピーディーな検証が、説明責任を果たす上でいかに重要か、その認識に欠けていたといわれても仕方がない。 テレビ界では、1990年代に入ると、いわゆる「やらせ」事件が続いて起こり、おわびと同時に検証番組を制作して、まがりなりにも視聴者への事実経過の説明に努めた。NHKの「禁断の王国・ムスタン」事件(1992年)と、テレビ朝日の「中国・死刑囚の臓器売買」事件(1993年)がその代表例だが、いずれも説明責任が求められている時代の流れに沿ったものである。 |
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