経営情報科学Vol.7No.4(1995.3)pp.239-256

成島柳北と『東京珍聞』

乾 照夫


[抄録]

 成島柳北は、旧幕府では外国奉行・会計副総裁を勤めたが、慶応4年(1868)4月の江戸城明け渡しを機に、向島須崎村に隠棲し、みずから「天地間無用の人」と称した。しかし、翌明冶2年(1869)に入ると、生活が逼迫したことで、柳北は経済的自立をはかるため、盟友桂川甫周とともに東京市中で薬屋を営んだ。
 所謝「新商人」となった柳北は、駿府の義兄に宛てた手製新聞『東京珍聞』第1号(明治2年6月)の中で、経済の変動による社会の混乱や物価高騰に言及し、「士族の商法」で失敗した旧幕臣の姿を伝えると同時に、新政府高官の芸者遊びをシニカルに紹介した。また柳北は、それとともに、新政府軍と旧幕府脱走者との戦いにも言及し、新政府での「官吏公選」にも注目するなど、状況を的確に把握し、時代の流れを読んでいた。
 柳北は、その後も『東京新聞』第2号(明治2年9月)の中で、東京に出現した通商会社や為替会社を紹介し、新商法を始めた富豪を風刺する一方、金札相場や米相場の動きを示しながら、物価騰貴で苦しむ庶民の実状を伝えんとした。また柳北は、そうした中から当時の政治課題にも言及し、北海道開拓の遅れを指摘したり、大学校内紛には儒学派を支持するなど、婉曲な表現ながら、その立場を明確にするまでになった。

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