原子爆弾で広島と長崎を壊滅することによって大戦を終息させた連合国にとっては、わが国における原子爆弾製造能力の有無の調査と、もしあるとすれば、その可能性を根こそぎ破壊することが極めて重要であると考えていたに違いない。当時わが国で、原子核の実験に用いられていたサイクロトロンは東京の理化学研究所と大阪帝国大学にそれぞれ2台ずつ、京都帝国大学に1台設置されていた。サイクロトロンは、原子核の基礎的な研究には極めて有用な装置であり、原子爆弾のエネルギー源である原子核分裂の研究にもアメリカでは用いられていたであろう。しかし、わが国には殆ど産出しないウランを大量に必要とする原子爆弾の製造に、これらのサイクロトロンが直接関係していたとは、多少の科学的知識を持つ者には到底考えられないことである。
しかしGHQは、これらのサイクロトロンが核兵器製造の原動力になると考えたのであろう。1945年11月24日朝、アメリカ軍は突然これらのサイクロトロンを押収し、破壊した。理化学研究所のサイクロトロンは5日にわたる徹去作業の後、東京湾に投棄された。 この事件は、最近中山、田島、及び筆者によってそれぞれある一面が紹介されいる。ここでは、理化学研究所のサイクロトロをつくり、研究を行っていた仁科芳雄の手記アメリカ側(マンハッタン計画)の責任者であったL.R.Groves(退役)中将の回顧録、および当時のニューヨーク・タイムズの記事をもとにして、破壊に対するアメリカ科学者の痛烈な批判と軍部の対応を中心にしてまとめるとともに、サイクロトロンをつくり、それを用いた仁科の研究にも触れてみたい。戦いは終わったとはいえ、数ヵ月前までは敵国であった日本に対して、国境を越えた科学者の良心を痛感するのは筆者だけではあるまい。
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